2023/12/30 19:28

 読書室の三砂慶明さんは「驚く」ことのできる人である。著書の『千年の読書』の入口で「私は本に人生を何度もたすけられてきました」という言葉に出会う。本に助けられる光景ってどんなものだろう。とても気になる。でも具体的に語られているわけではない。しかしこの一言が気になり、わたしは三砂さんの存在が忘れられない。

 わたしの本屋、定有堂書店で三十年ほど「読む会」という読書会を導いてきている岩田直樹さんが、二〇二三年二月に『橋田邦彦・現象学・アーレントの再解釈』(以降『再解釈』と略)という本を刊行した。岩田さんは公立鳥取環境大学の特任教授でもあるが、市井のこの読書会の方に心を寄せている。専攻は地球物理学、学校現場では数学教師、しかし読書するのは哲学書が中心。なぜなのだろう。これも大いに気になるところである。

 三月二十八日に、この気になる二人が岩田研究室に合流し、三砂慶明主宰「読書室」読書会を開催した。メディアの参加もあった。

 課題図書『再解釈』の入口に次のような言葉がみえる。

《荘厳な日の出に感嘆しながら、広大な太平洋の上に私しか存在しないという孤独感、しかしながら心安らぐ地球との一体感を抱くとき、神秘的な至高感にとらわれるのであった。》

 二十二歳の大学院在籍時のマリアナ・パラオ海溝調査航海の、早朝船上体験だ。ある何かに「驚き」そして科学者の道から哲学の道へと転向した瞬間である。

 わたしは「本にたすけられた」という三砂さんの「驚き」と岩田さんの「驚き」は同じ性質のものではないかと思った。二人とも直接にその「驚き」を語ることはない。岩田さんは生活世界の素朴な思い込みを解体する現象学の道へ進み、三砂さんは千年の読書へと吸い寄せられる。「本にすくわれる」体験は啓示であり、以後その福音の伝道師となる

 木田元の『ハイデガーの哲学』を読んでいたら、突然世界が開ける、という表現があった。「生物的環境」の中では環境緊縛性が強い。しかし人はある瞬間「生物的環境」から「世界」へと超越する。人の意志を越えた出来事で、「驚き」が「世界」を開く。しかしその驚きとは何かが存在するという驚きだからどちらが先ともいえない性質のものだ。

 そこの機微を、ウィトゲンシュタインは「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」(『論理哲学論考』)と語っている。

 ハイデガー的にいえば、存在了解(驚き・人間の意志を越えた出来事)が現存在(人間)に先立つということになる。

 三砂さんは「読書」という言葉が頭から離れない。人が本を読むというよりノエシス的行為の上に「読書」が生起する。それをある作家の「読んでいる精神の駆動そのもの」という言葉で説明したこともある。「読書」は世界を開くのだ。そこに日常のことがらをさらに高次の関係のもとに関係づける「シンボル体系」が開ける。

「読書室」に参加した十数人のやり取りの中、わたしは一人「本にすくわれる」ということの謎ばかり考えていた。人は「である」と「がある」との間で立ちすくむ。理想と現実といってもいい。本を読むというその精神の「強度」がその区別を解消するのではないだろうか。ちょうどニーチェの力への意志のように。

 「本にすくわれる」ということを結局ここでは三つの側面で考えてみた。

 一、環境緊縛性からの離脱

 二、シンボル体系の獲得

 三、世界(存在)が開ける

 本は「驚き」によって世界(存在)を開く、それは環境緊縛性から世界開示性への開かれでもあり、ときにそれが「自由」の体験であり、また「救い」でもある。

 「本にたすけられる」という三砂さんの「驚き」からそんな福音のすがたを考えてみた。

2023年5月3日

奈良敏行(なら としゆき)

1972年早稲田大学文学部卒。松竹演劇興業課を経て、郵政職員。この間、自主講座グループ「寺子屋教室」会員。1980年鳥取にて、定有堂書店を開業。定有堂教室と称して「心理学講座」や「読む会」など数多くの「学び合い」をつづける。同時に、ミニコミ誌活動として月刊書評誌『定有堂ジャーナル』を10年継続。2016年から交流誌『音信不通 本のビオトープ』を月刊で刊行中。

定有堂書店のウェブサイト:http://teiyu.na.coocan.jp

定有堂書店の刊行物『伝えたいこと 濱崎洋三著作集』